「韓氏意拳が表現者にもたらすもの」
韓氏意拳を含めすべての「武術」の目的は「相手を倒す」ことにある。
しかし、現代において武術はさまざまに変容し、その内容も多様なものがある。
競技としての武術になっているものもあれば、
喧嘩が強くなりたいためにやっている者が集まる武術もある。
伝統芸能としてやっているものもあれば、健康法としての武術もある。
韓氏意拳もただたんに「闘う」ことを目的として練習するものではない。
実際に体験してみればわかるが、殴る、蹴るといった交流はいっさいない。
また組手のようなものもない。 韓氏意拳は「ひとり稽古」が基本となっている。
ひとり稽古では、手を振る、手を挙げる、寄せる、
重心を転換する、歩をすすめる、といったごく単純な、
あるいはごく単純に「見える」方法で練習する。
私も最初に体験講習会に参加したときは、
なにをやっているのか(あるいは自分がどうなっているの)さっぱりわからずに、
ほとんど途方に暮れた。
しかし、そこには、自分自身に関わるなにか重要なものがあるような気がして、
二度、三度と参加し、入会した。
稽古の回数を重ねていくうちに、
武術としての「強さ」を自分が備えたとはまったく実感できないのだが、
まちがいなくいえるのは自分の身体の声を聞くセンサーの感度が格段に上がった、
ということだろう。
いまどんな感じなのか、いまどんな状態なのか、
どこにどんなふうに力がはいったり、抜けたりしているのだろうか。
より稽古が進んでくると、
自分の動きが「形」をねらっているのか「動き方」をねらっているのか、
「そうやろう」としてやっているのか、
次第に洗いだされてくる感じがあった。
まだまだほんの一瞬ではあるが、
自分の身体が「自然にそう動こう」としている「きざし」をキャッチして、
活力のおもむくまま動けることがある。
それはまったくあたらしい自分の身体のありようがかいま見える瞬間であり、
新鮮な体験でもある。
私はひと前でピアノを演奏する人間だが、
この韓氏意拳がもたらした一種の「気づき」によって、
パフォーマンスにおける自分の内外の風景がまったく異質のものになっていった。
そしてそれはいまも進行中だ。
別にピアニストでなくても容易に想像がつくと思うが、
自分の身体のありようや自分が受け取っているものについて
繊細に気づきつづけながら演奏している者と、そうでない者とでは、
表現がまったくちがうものになる。
演奏にかぎらず、話すとき、歩くとき、絵を描くとき、
文章を書くとき、歌うとき、踊るとき、
なにかおこなうときに自分の身体がそこに「ある」のと「ない」のとでは、
おこないの質がまったく違うものになる。そのことを私は日々実感している。
そしてさらにそのことを緻密に深めていきたいと思っている。
武術を稽古する動機としては、
私のそれはいささか不純なものかもしれないが、私にとって
韓氏意拳が日々生きていくなかで必要不可欠なものであることはまちがいない。
稽古の時間は、私にとって、自分の「生」の質そのものを左右する時間となっている。
水城ゆう